第151号 −− びくともせずに揺れに揺れる −− 1999.09.05
第156号 −− 毛皮の靴(高貴の血筋)からガラスの靴(天与の美徳)へ・表象の転換 −− 1999.09.30
前回の言問いメール155号では、フランスのルモンド紙上で展開された 《ガラス
の靴論争》の一方の当事者であるドラリュ氏の論文についての、アメリカの民俗学者ダ
ンダス氏による紹介記事の日本語訳をご紹介しました。肝心のドラリュ論文(の日本語
訳)は省略してしまいましたが、実はその訳文の中には、私には論理的に意味不明の文
章がありました。これは、フランス語の原文が英語に翻訳され、さらにその英訳をもと
にして日本語の翻訳が行われたために、おかしな日本語が出来上がってしまったものと
思われます。
そこで今度は、再び福岡大学図書館に行って、片木智年「ペロー童話のヒロインた
ち」(1996年・せりか書房)という本を借りてきました。この本の末尾にある「著者紹介
」によると、片木さんは1989年にパリ第3大学で博士課程を終了した方ですから、ちゃ
んとフランス語で原文を読まれており、フランスの歴史や文化にも詳しそうな方なので
、その解説は私にとって非常に興味深いものでした。また、ルモンド紙上での《ガラス
の靴論争》でドラリュ氏から批判されたドーサ氏の主張についても、アメリカ人のダン
タス氏が「お決まりの例のガラス/毛皮誤訳説」とレッテルを貼るだけで一顧だにして
いないのに対して、片木氏の解説を読むとドーサ氏の側の「毛皮の靴」説もそれなりに
説得力のある主張であって、ダンタス氏の言うような卑俗なものではないようです。
以下に、上記片木氏の著書の内で、 《ガラスの靴論争》に関係した2カ所を引用、
ご紹介します。なお、引用が少し長くなるので、島岡光一さんから「通信料がかさむじ
ゃないか」とお叱りを受けそうですが、奥様が興味を持って読んで下さると思うので、
ご勘弁下さい。
<引用開始>
シンデレラ物語と言えば人々の心に消しさりがたい印象を残しているのはガラスのく
つではないだろうか。「この世でもっとも美しい」この不思議なくつと、「金銀の布地
にダイヤモンドを散りばめた」ドレスで着飾ったサンドリヨン(シンデレラは英訳語で
あって、もともと原文のフランス語では《サンドリヨン=灰まみれの少女》である)は
、これまた不思議なかぼちゃの馬車にのってお城の舞踏会へと出かけて行く。名付け親
の妖精の忠告にもかかわらず、時のたつのも忘れたサンドリヨンは12時を告げる最初
の鐘の音を聞くと走り出す....「めじかのように軽やかに」。そのときガラスのく
つの片方を落としてしまうのだが、このくつが、継母と2人の姉のもとで辛い暮らしを
強いられている美しく気だてのいいサンドリヨンを国中の未婚の娘の中から見つけだす
鍵となるのはご存じの通りである。
サンドリヨンの落とすくつと、少女の発見がペローにとって物語の中心となっている
のは実際にテキストのタイトルからもうかがえる。ペローのシンデレラ物語のもともと
のタイトルは「サンドリヨン、もしくは小さなガラスのくつ」であり、しかもこのくつ
(原語ではスリッパのような部屋履きを意味している)は単数形になっている。英語と
同じくフランス語でもくつを表す言葉は一般に一対を指して使う場合は複数形で使われ
るわけで、実際に物語の中で大きな役割を果たすことになる一方のくつのみがタイトル
となっているのである。ガラスという素材自体についていえば当時から既に壊れやすい
ものの象徴のように考えられ、「ガラスのように壊れやすい」という表現は常套句とし
て既に存在していた。このサンドリヨンのガラスのくつは、少女の小さな足のみならず
、それを履いて踊るサンドリヨンという少女自身をきわめて非現実的な透き通った存在
のようにしてしまう。
ところが、かぼちゃの馬車、二十日鼠の馬や家鼠の御者、とかげの従者、そしてサン
ドリヨンのドレス、すべてが夜中の十二時の鐘がなり終わると同時にみすぼらしい現実
に戻ってしまうのに対して、このはかないガラスのくつだけは元のままである。ペロー
のテキストでは、他のすべては名付け親の妖精が魔法の杖で現実から変化させたいわば
仮象のものであるのに対し、ガラスのくつだけは、じつは妖精の「贈り物」であるとい
う点でつじつまがあっている。
何かと議論の多いこの「ガラスのくつ」なのだが、その素材、つまりガラスをめぐっ
て長い間論争が続いてきた。
ペローのテキストに現れるガラスのくつはフランス語では Pantoufeles de verre だ
が、まずパントゥフル(Pantoufles)とはヒールのないスリッパのような部屋履きを意味
していた。日本人の多くが思い浮かべるであろうガラスのハイヒールは後代の想像力の
産物なのである。おそらくウォルト・ディズニーの影響が決定的ではないかと思われる
。当然、「現実」のパントゥフルは柔らかな素材で出来ている。
さらに、フランス語でガラスを意味する verre (ヴェール)には同音異義語で vair が
ある。日本語では銀リスなどと訳されるが、美しくしなやかな小動物の毛皮を意味して
いる。ペローが17世紀末に物語集を刊行した際にはこの言葉はすでにほとんど使われ
なくなっていたようである。この「ガラスのくつ」がじつは「銀リスの毛皮のスリッパ
」の誤用だという説がすでに19世紀から存在し、しばしば議論されてきたのである。
本書でも簡単におさらいしておこう。
リトレというフランスの高名な語彙学者が作家のバルザック同様にこの立場をとって
いる。ペロー自身のテキストが Pantoufle de vair になっており、後の版がこれを誤っ
て verre としたためにガラスのくつという解釈が広まったのだと考えた。実際にはペロ
ー自身の初版が verre となっていることが確認されており、現在では支持するものがい
ない。ちなみに、今日でもフランス語、フランス文化の研究者が重宝しているリトレの
大辞典では vair の項目に次のような注がついている。「サンドリヨンの物語のいくつ
かの版で vair のくつの代わりに verre、つまりガラスのくつ(馬鹿げている)と印刷
されたのは、今日ではほとんど使用されなくなってしまったこの言葉の意味がわからな
かったからである」。
次に、ペロー(もしくはその息子)が口承でこの物語の原型になったものを聞いたと
きに、当時すでにほとんど使われなくなっていた vair をverre だと思い込んでしまっ
たという考え方がある。こちらの方は今日でもいくらか説得力があるように思える。
例えば『昔話の魔力』という本の中で、精神分析のブルーノ・ベッテルハイムが述べ
ているように、もちろん vair とはまったく関係なしに「ガラスのくつ」はペローの創
作だという考え方もある。
最後に、「ガラスのくつ」はもちろん「ガラスのくつ」であり、民間伝承によるもの
であるとする考え方。一番素直で、むろんこれが今日でももっとも有力な考え方である
。民俗学者のドラリュが何度かにわたってこの立場を説明する文を発表して以来、ほと
んど決定的な考えとなっている。ドラリュによれば、スコットランド、アイルランド、
カタロニアなどで「ペローの影響の見られない」古い形を残した民話にガラスや水晶と
いった素材のくつが現れている。これはペロー自身が既に存在していた「ガラスのくつ
」の伝承を踏襲したことを示しているとされる。実際にいささか唐突に思われるガラス
という素材自体が魔法の素材として、眠り姫の類話になる中世のマニュスクリプトにも
現れている。
とはいっても、ことシンデレラ物語という範囲に限定すれば、ガラスのくつがペロー
のヴァージョンから古い形を残す民間伝承に逆輸入のような形で入っていった可能性も
完全には否定できない。さらに、民話の伝播を考える際に「・・・・の影響を受けてい
ない」という断定は常に危険を伴う。
結局のところ、ガラスのくつ論争が一段落した今日、最も大切なのはペローがはっき
りとガラスのくつとつづったことを認めた上でその意味を問うことだろう。そういった
観点からいうとペローが伝承を継承したのかどうかはじつは本質的な問題でも何でもな
かったのだともいえる。文学者、語彙学者、さらにはドラリュといった民俗学者までも
まきこんだこの論争の焦点がぼやけてしまったのは、ガラスのくつであれ、シベリア銀
リスのくつであれ、それが持ち込まれることによっていったい物語にどういう「意味を
与えたのか」という問題がおざなりにされたことである。そしてこの論争の背後に隠さ
れているより微妙な問題、シンデレラ物語を取り扱う論者たちがいったい物語にどうい
う「意味を与えたがったのか」という問題もまた省みられる必要がある。
そう考えると vair つまり、「銀リスの毛皮」が中世において王侯の印であったこと
が重要性をもってくると思われる。シンデレラの認知の印であるくつは、本来高貴な者
のみに使用を許されていた素材のくつ、つまり一時的に隠されてしまった正当な血筋の
証だったと考えることもできる。ヨーロッパに限らず、色々な装身具が認知のマークに
なる伝承、物語は数え切れないほどある。「銀リスの毛皮」という説がかくも根強く繰
り返されてきたのは単に「ガラスのくつ」の非合理性に対する反駁ではない。サンドリ
ヨンの運命の核心にある「血筋の認知」というテーマと現代ではその象徴的価値を失っ
てしまった高貴な素材の間に一種の深い照応が直感されるからだろう。ドラリュの論争
相手ドーサ側から出された「当時の奢侈禁止令により貴族のみに許された毛皮のパント
ゥフルこそシンデレラのくつにはふさわしい」というルモンド紙読者の意見(1951.3.28)
もこれに近い。
時代が流れ、高貴さの象徴としての「銀リスの毛皮」が一般の人々の想像可能な世界
から遠ざかる。言葉自体がほとんど使われなくなることによって、ごく自然な形で意味
のすり替えが起こったと考えることもできるのである。この場合は話し手も聞き手も同
様にヴェールを自分の想像できる範囲からガラスの意味と解釈するわけである。
(中略)
じつはサンドリヨンのガラスのくつとヒロインについては、もう少し変わった見方を
することができる。ペローがこの作品の終わりにつけた教訓詩は次のような内容である。
女性にとって、美しいことは希なる宝
眺めて飽きることはない
それでも「ボンヌ・グラース」と呼ばれるものは
かけがえもなく、ずっと貴重
これが名付け親がサンドリヨンにもたせたもの
しつけ、教育して
そして女王様にしたのです
(こんな風に人はこの物語に教訓をつける)
美しい女たちよ、この授かりものはきれいに髪を飾ることよりもずっと価値がある
のです
人の心を引きつけ、わがものとするには
「ボンヌ・グラース」こそは本当の妖精たちの贈り物
それなくしては、何もできない、それさえあれば何でもできる
妖精たちの「本当の」贈り物にして、女性の持つ最大の武器である「ボンヌ・グラー
ス」とは一体なんだろう。あえて訳さずにおいたが、フランス語ではたいへん曖昧な意
味を持つ言葉で、ペローの時代からいろいろ議論された概念である。
これについては「サンドリヨン」、「妖精たち」双方との類似性をいわれる同じ頃の
テキスト「エロカンスの魅惑」が参考になる。著者のレリチエ嬢はシャルル・ペローの
姪に当たり、ペロー一家に文芸創作の上でとても深い関わりのある女性であった。「エ
ロカンスの魅惑」は直接にはペローの「妖精たち」と同じ題材を扱い、分量的にははる
かに大きくなっている。
作中、家庭の中で継母とその娘に虐げられている娘の境遇がかなり長々と描写されて
いる。家の中で下女の働きをしたり、その美しさを隠すために汚い格好をさせられたり
といったところは細かい部分にいたるまでペローの「サンドリヨン」を思わせる。娘は
ペローのヒロイン同様に髪を結ったりするのが上手な少女であり、これもペローとレリ
チエ嬢のテキストが、どちらが先とも言えないものの、お互いに影響しあっていること
を示している。
ここでも「ボンヌ・グラース」という言葉の使い方がたいへん興味深い。
この物語に現れる妖精は「素晴らしい衣装ではあったが、そういった飾りよりも、む
しろ立派な様子とボンヌ・グラースによって光り輝いていた」とされている。つまり内
面からにじみでる言い表しがたい魅力、優美さと考えた方がいいのではないかと思う。
ところで「サンドリヨン」の本文中での妖精の贈り物とはかぼちゃの馬車でもなけれ
ば、舞踏会のためのドレスといった装飾でもなく、唯一ガラスのくつだけである。本文
中でのガラスのくつと教訓詩の「ボンヌ・グラース」がはっきりと照応しているといえ
るのである(この照応関係をどう見るかは意見が分かれるだろう)。ガラスのくつもま
たこれまでに見てきたように実に様々な意味の広がりをもつ仕掛けであって一筋縄では
いかないが、じつはこの「本当の贈り物」である「ボンヌ・グラース」を物語中で具体
的なイメージで表象する役割もあったのかもしれない。
実際、「ボンヌ・グラース」という希な宝が、ペローによってガラスのくつの繊細な
アレゴリー(抽象的な概念、たとえば愛とか欲望とかが具体的な人物などにたとえられ
て表現されるときアレゴリーといい、ヨーロッパの芸術の伝統は長い間このアレゴリー
に支配されていたとも言える)で表現されたことは大いにあり得ることだと思うが、そ
れにしても「ボン・グラース」は妖精が「しつけ、教育」して得られるものなのだろう
か。
(中略)
そう考えると、サンドリヨンに関して「ボンヌ・グラース」こそが妖精の「本当の贈
り物」だとし、それがすべてを可能にし、それなしでは何もできないとされているペロ
ーの考え方は今日の「平等教育」的な教育観からいうと何とも苦々しく、サンドリヨン
とはやはり選ばれた娘であって、その認知は汚れた灰のイメージによって覆い隠された
希少な宝石の発見だという気がする。そしてその発見が運命的なガラスのくつのイメー
ジによって導かれるのである。どうやら17世紀のフランス文化は今日われわれが知る
「民主主義」教育ほど偽善的ではなかったのかもしれない。
<引用終わり>
どうも、長々お付き合い下さいまして、ご苦労様でした。これでわれわれもだいぶシ
ンデレラ通になっちゃいましたね。
第155号 −− シンデレラの靴・200年に渡る論争 −− 1999.09.28
「言問いメール152号/ガラスの靴なぞ履けるものか(転載)」で、「Encycl-
opaedia Britannica」および研究社の「新英和大辞典」には、童話「シンデレラ」のガ
ラスの靴はフランス語の「pantoufle en vair (fur slipper)を verre (glass) と誤訳
したもの」と解説されている事ををご紹介しましたが、以来、私はこの説明にどうも納
得できないものを感じ続けてきました。
何故かというと、舞踏会の後で王子が、残されたシンデレラの靴を唯一の手がかりと
して、全国の若い女性にその靴を履かせてみて、ぴったり履けた者が意中の人であるか
ら宮殿に連れて来い、という命令を出すわけでしょう。毛皮の靴ならば、かなりの曖昧
性を許して、多くの女性がその靴を履けるのではないかと思われます。壊れやすいガラ
スの靴だからこそ、本当にピッタリした足でないと、無理に履こうとすればパリンと割
れてしまうわけです。
また、壊れやすいガラスの靴だからこそ、その靴を履いて見事にダンスを踊るシンデ
レラは、まるで天から舞い降りた天女のような軽やかなステップで踊ったんだというイ
メージが湧くではありませんか。さらに、当時の貴族が履いていた「毛皮の靴」だとす
れば、その靴の持ち主は単なる貴族の娘だと推定されてしまいますが、この世(当時の
)には存在しないガラスの靴を履いていた娘ということになれば、まさにそこには魔法
や神秘が介在していることが表現されています。そのように考えてみると、どうも童話
としてみたときには、「毛皮の靴」よりも「ガラスの靴」の方がふさわしいとしか思え
ません。
ちなみに岩波「広辞苑」で「シンデレラ」を引いてみると、「...継母に虐待され
る少女が小さいガラスの靴によって幸運を探し当てる説話で、16世紀のドイツ文学に
初めて現れた。...」と書いてあり、福岡大學内の書店で他の辞典類も立ち読みして
みたところ、小学館「大辞泉」、学研「ビジュアル新世紀大辞典」等にもシンデレラは
ガラスの靴とハッキリ明記してあります。これらの辞典を編纂している国語学者達は、
「ガラスの靴」誤訳説を御存知無いのでしょうか?
本日、先ほど福岡大學図書館へ行って、アラン・ダンダス編池上嘉彦ほか訳「シン
デレラ☆9世紀の中国から現代のディズニーまで☆」という本を借りてきました。編者
のダンダス氏はアメリカを代表する民俗学・人類学の権威だそうで、この本は「シンデ
レラ説話」を研究した様々な学者の21編の論文が集められ、その内から15編が日本
語に訳されて集録されているものです。その内のいくつかの論文を読んで、私は初めて
、「シンデレラの靴はガラスか、それとも毛皮か?」という問題が200年来の論争の
テーマであることを知りました。
たとえば、上記の本の(注)に孫引き引用されているフランスの文豪バルザックの主
張は次のようになっています。
<引用開始>
1836年に刊行されたバルザックの著書「カテリーヌ・ドゥ・メディチについての哲学
的研究」の中で、彼は以下のように記している−−−「毛皮には大きい毛皮と小さい毛
皮とが区別される。この語はここ百年ばかりの間すっかり用いられなくなってしまって
おり、そのため、ペローの民話の数え切れない程の数の諸版では、シンデレラのかの有
名なスリッパはもともと疑いもなく小さな毛皮(menu vair または miniver)であるはず
なのに、まるでガラス(verre)であるかのように表されている。」
<引用終わり>
つまり、ペローの民話集にはハッキリ「ガラス(verre)の靴」と書いてあるが、バルザ
ックはそれを「小さな毛皮(menu vair または miniver)の靴」の誤りだ、と主張してい
るわけです。これでハッキリした事は、「ガラスの靴」というのは、フランス語から英
語に訳された時の誤訳なんかではなく、元来のペローの説話集にちゃんと「ガラス(verre
)の靴」と書いてあり、バルザックはそれを恐らく、ペローが伝承者の口述を聞き取った
時に同音異義語(vair => verre)を間違えて理解したのだろうと解釈しているわけです。
しかし、上記の本の編者であるダンダス氏は「ガラス(verre)」が正しい、という立
場のようで、フランスのルモンド紙上での《ガラスの靴》論争でのフランスの民俗学者
ポール・ドラリュの論文を紹介する解説で、次のように書いています。
<引用開始>
研究者の中でもシンデレラを文学史の流れにおいてとらえることを好む人々は、この
話の中にあるいくつかの一見奇妙でとっぴとも思われる要素の存在を説明するのに難渋
してきた。そのような要素の一つがガラスの靴である。これはそれだけでひとつの学問
的な論争の対象となってきた。ガラスの靴というものは常識的な日常の現実には起こり
得ないものなので、ガラスの靴のもつ意味を説明する必要があるというのである。うま
い説明のひとつに「毛皮」を意味する古いフランス語 vair が誤って「ガラス」という
意味の verre に置き換えられてしまったからだというものがある。毛皮の靴ならわかる
が、ガラスの靴では意味をなさないというのである。このような説明をするとひとつ困
るのは、それでもペローが実際に verre という語を使ったのは事実であるし、また更に
フランス版以外のシンデレラ物語の中にはガラスの靴に対する言及があるものがあり、
このことはガラスの靴が伝承の中に存在したことを示している。しかし、コックス女史
は彼女の収集した345の類話のうちわずか6話にしかガラスの靴が出てこなかったの
でこれらはみなペロー版の影響を受けたものだろうと考えている。ガラスの靴は大抵の
シンデレラ物語には登場しないものらしいということは確かのようである。しかし、い
くつかの話の中には事実出てくるのであり、フランスの民話学者ポール・ドラリュが指
摘しているように他の民話にはガラスの靴が出てくるものがある。
vair と verre が誤って入れ替わったのだという説明が固定化していった理由のひと
つはそれがブリタニカ百科事典という権威ある書物に掲載されてしまったということだ
。次々と版を重ねるなかで読者はずっとこう知らされてきた:「ペロー版の翻訳である
イギリス版のシンデレラでは彼女が宮殿の階段で落としてしまうガラスの靴は《毛皮の
靴》がうっかり間違って《ガラスの靴》と訳されてしまったことに由来する」と。あの
ブリタニカ百科事典が間違っているなどということがあるだろうか。何十年もの間民話
研究者たちは証拠のないガラス/毛皮誤訳説に反論しようと盛んに研究を進めてきたが
無駄だった。無知な作家がこの誤りを正してもすぐまた別の作家が現れて元通りにして
しまうのだった。
そのようなわけで、フランスの民話の権威であったポール・ドラリュは 1951年1月24
日のル・モンド紙にアルベール・ドーサが論文を寄せているのを読んだときこれに反論
せざるを得ない気持ちになったのである。というのもその論文にはお決まりの例のガラ
ス/毛皮誤訳説が再びまことしやかに繰り返されていたからである。ドラリュは彼の反
論の中でこの問題についての民話学者のとるべき態度を簡潔に述べている。さらに言い
添えるとすれば、文学的観点とは異なるが、象徴的立場に立てばガラスは十分妥当性が
あるといえるということである。ガラスは通常よく用いられる処女性のシンボルである
。つまり壊れ易く一度失われると二度と取り返しのつかないものである。ユダヤ人の結
婚の式典には花婿は−−幸運を願って−−ガラスのコップを足元で割るというものがあ
る。この見地からすれば、事典編集者らが「ガラス」を「毛皮」に変えようとしたこと
自体考慮に値するといえる。民話同様、民話の解釈もまたその解釈をする人の想像力が
反映したものと見ることができるからである。
ドラリュは新聞に寄稿した論文には自分の主張を立証するための脚注などはつけられ
なかった。しかし、彼は自分の主張のひとことひとことの背後に、しようと思えばいく
らでも挙げられる証拠を持っていたのだということは知っておいた方がよい。
(以下省略)
(上記のイントロに続けて、ル・モンドに載ったドラリュ論文が再録されているのです
が、その結論は上のイントロに紹介されており、引用が長く成りすぎるので、ここでは
紹介しないことにします。興味のある方は、直接、図書館でアラン・ダンダス編池上嘉
彦ほか訳「シンデレラ☆9世紀の中国から現代のディズニーまで☆」(1991年・紀ノ国
屋書店)を探して下さい。)
【教訓】「世界のブリタニカ百科事典」でも疑え!
第154号 −− ガラスの天井(訂正) −− 1999.09.17
さきほど発信した「言問いメール153号/ガラスの天井」の最後の部分(フラ
ンス語)にひどい勘違いがありました。
英語の ceiling の綴りに引きづられて、天井 = ciel と勘違いして辞書を引いて
しまいましたが、Arc-En-Ciel なんていう音楽グループもあるくらいだから皆さま良く
御存知のように ciel は「空(そら)」( = sky)であって、「天井」に対応するフラ
ンス語は「plafond」ですね。英語の「glass ceiling」を直訳して、フランス語でも
「plafond en verre」と言うかどうかは知りません。
どうも、今日は朝から雑事や会議に追われ、精神的にかなり疲労困憊している状態で
「言問いメール」を書いたので、初歩的なチョンボをしてしまいました。でも、研究室
に鍵をかけて、帰宅しかけて、突然何の前触れも無しに、「あれっ、何で ciel で辞書
を引いたんだっけ。天井なら plafond のはずなのに。」と気が付いて、やれやれ、外
はもう真っ暗で、早くアパートに帰って洗濯物を取り込まなければならないのに、もう
一度訂正のこのメールを出してからでないと、私の今日の大学での日課は終了しないの
であります。
<追記>
上記の「Arc-En-Ciel 」について、城西大学理学部の山崎正之さんから、「L'arc-
En-Ciel」の誤りであることを指摘されました。なるほど、「虹(一般)」ではなく、
「ほら、そこに出ているその虹」というわけですか。 (1999.09.20)
第153号 −− ガラスの天井 −− 1999.09.17
昨日の「言問いメール152号/「ガラスの靴なぞ履けるものか」(転載)」を
読んで、福岡大学・電子情報工学科・教授の首藤公昭さんは周囲の人3、4人に質問
してみたら、誰もがシンデレラの靴はガラス製だと思い込んでいたそうです。
翻訳家の島岡弘子さんからは、いろいろな感想を述べたメールを頂きましたが、
その中に
またガラスの靴と
「glass ceiling」ともつながっているようで
象徴的な面白さもありました。
という文章があり、私は「glass ceiling」という言葉を知らなかったのであわてて
辞書を引きました。研究社「新英和大辞典(第5版)」(初刷 1980, 31刷 1996)
には載っていませんでした。新しい言葉なんですね。高校生用の小学館「ラーナーズ・
プログレッシブ英和辞典(第2版)」(初版第1刷 1992, 第2版第1刷 1997)には
出ていました。
glass ceiling 【名】[U]ガラスの天井: 女性や人種に対する出世(昇進)の行き
止まり
なーるほど。さすがに、達者な語学力を生かして国際人権活動に飛び回っておられる
島岡さんですね。いや、単に私がそういう時事的語彙に弱いだけかも知れませんが..
..。この場合の glass は、透明だ(目に見えない)けれども固い物、の代表として
取り上げられているわけですね。見えない天井、無いはずの天井、有ってはならない
天井、...しかし、厳然として昇進を拒む天井がそこには存在して、頭打ちにして
しまうという事か。
島岡さんは、決して ciel vert => ciel en verre のような誤訳の可能性を示唆し
ているわけではないけれど、昨日の「pantoufle en vair」の事を考えると、ちょっと
フランス語の方もチェックしてみたくなって、仏和辞典で「ciel」(天井)の項を見
てみました。そうしたら、
la politique a' ciel ouvert ガラス張りの政治
(= open ceiling politics)
なんていう表現が載っていました。「ciel ouvert」は「開いた天井」すなわち「青天
井」の事ですが、それに「ガラス張りの」という日本語を当てるところが面白いです
ね。「青天井」なら本当に「密室政治」の覆いが無い状態ですが、「ガラス張りの」
というと、「glass ceiling」の例のように、バリアーが無いように見えて、実は硬い
透明の壁が遮断している、という風にも考えられますから。
第152号 −− 「ガラスの靴なぞ履けるものか」(転載) −− 1999.09.16
旅行専門学校「hospitality」講座の専任講師をやっている大津ゆりさんから、
彼女の友人の伊藤敏郎氏の同報メールに掲載された「ガラスの靴なぞ履けるものか」
という、たいへん面白い記事が私の所に転送されてきました。私1人で読むだけでは
もったいない、とても興味深い内容なので、伊藤さんの了解を得て、以下に転載いた
します。
<引用開始>
「ガラスの靴なぞ履けるものか」
(シーン1)
小学校一年生になる娘と絵本を読んでいたときのことである。物語は「シンデレ
ラ」、そう、お馴染みの話である。舞踏会へ行けないで泣いているシンデレラの前に
魔女が現れ、カボチャを馬車に、ハツカネズミを馬にどぶネズミを御者に・・・、更
にガラスの靴を渡し、のくだりで彼女が「ガラスの靴ねえ、割れて怪我しないように
しなくっちゃ。」という。
何気ない子供の一言が私の頭の中に電流を走らせた。確かに云われてみればもっ
ともな話である。一体、「ガラスの〜」といえば、脆く、壊れやすい物の喩えではな
いか。確かに現在では、火にかけても割れない強化ガラスや或いは目の中に入れても
安心なコンタクトレンズのような柔らかいガラスなどもあるが、そんな物は昔はあっ
た筈がない。ガラスの靴を履いてダンスを踊る?寧ろ割れないと云う方が不自然では
ないか。
どうしてこんなユニークな発想が生まれてきたのだろうか。そもそも、シンデレ
ラとはいつ頃の話? 原作者は? ・・・これらについて何も知らないことに少なから
ず狼狽し、調べてみることにした。
結果、分かったこと。
1.ブリタニカ国際大百科事典(73年版)−シンデレラの項目無し
2.平凡社「世界大百科事典」(88年版)
この物語の原型は世界的に分布の多い継子いじめの物語で、起源はオリエントで
あろう、ということ。現代版はフランス語では Charles Perault(1628-1703)が
1697年に<昔々の物語並びに教訓>で取り上げていること、ドイツ語では
グリム童話集の21番に「灰かぶり」として収録されている旨が述べられている。
3.平凡社「世界大百科事典」(57年版)
世界的に分布する類似の物語を、比較研究家の Marian R. Cax が1892年頃
345話収録し、その中には日本の「鉢かつぎ姫」も取り上げられていることを
記述。
4.Grolier Universal Encyclopedia (66年版)
各地に流布していた昔話を現代版にしたのは前述のペローが最初であること、お
よびペローのバージョンを最初に英語に翻訳したのは Robert Samber であり、
1729年であること。
5.The World Book Encyclopedia (72年版)
物語のあらすじとペローのことにふれるのみ。
等いろいろ分かったものの、最初の疑問についてはそのままである。「ガラスの靴」
についても英語では Glass Shoes ではなく Glass Slippers というのだそうである。
(シーン2)
先週2月15日(月)スイス政府観光局に長年勤務された鈴木光子女史が昨年末
で定年退職ということで、Happy Retirement 記念パーティが有り、お招きを受けて出
席した。多数の出席者とその顔ぶれから彼女の在職中の活躍ぶりが窺い知れると同時
に、鈴木さんもピアノでノクターンを演奏するなど、多芸多才ぶりを披露し、楽しい
パーティであった。
私と鈴木さんとのそもそも最初の出会いは、昭和48年エールフランスが東京−
タヒチ間の直行便を就航させ、その直後同社が企画したタヒチ研修旅行に共に参加し
たときであった。因みに、当時彼女はフランス郵船(Messagerie Maritimes) に勤務、
私はJTBにいた。
パーティからの帰路の電車の中で、たまたま鈴木さんとのタヒチでの一場面が突
然よみがえってきた。他の参加者も一緒にテラスでお喋りをしていたときのことであ
る。フランス語に堪能な鈴木さんが(それも道理、彼女は東京外国語大学のフランス
語科卒だそうである)、グラスをもう一つ持ってくるようにウェイターに申しつけた
のである。その彼女のセリフ中の一語「ヴェール」を緑色のことだとおもっていた私
の質問に「緑もガラス(コップ)も発音は同じなの。でもスペルが違う。」と彼女は
説明してくれたことであった。
(シーン3)
何の脈絡もない前記二つの話が偶然一つになった!!
緑( vert adj. m ) とガラス、コップ( verre n.m. ) を辞書で確認したつい
でに、ヴェールだったら他のスペルでも可能ではないか、と思いつき仏語辞書の V の
項を見ることにしたのである。
な、な、なんとそれ以外にも ver, vers, vair が同音異語ではないか!!
ver (n.m.) はミミズ、或いは転じて虫けら同様の男の意
vers (n.m.) は詩句、英語の verse
vair (n.m.) はシベリアリスの毛皮、
とある。(旺文社「ロワイヤル仏和中辞典」)
瞬間、私の頭の中を今度は稲妻が走った。ペローが書いたオリジナルではひょっ
としたら魔女が渡したのは「ガラスの靴」ではなく「リス革の靴」だったのではある
まいか。念のため別のフランス語辞書にあたってみる。大修館書店「スタンダード佛
和辞典」はvair に「中世」(北国産のリスの)銀ネズミ色の毛皮(王公(ママ)貴族
が専用する)、という説明を与えている。
もう間違いない。貴族しか使用できないようなリス革の靴であれば、物語の筋か
らしても相応しいし、さぞや、柔らかく、軽く、ダンスのステップも優雅に踏めたこ
とであろう。
ペローの時代は当然 Gutenberg より後のことであるから、印刷された本はあった
ことであろう。しかし、童話というものは、そもそも暖炉の前で親から子へ祖母から
孫へと、語り継がれることの方が多い性格のものである。してみれば耳から入ったフ
ランス語の「リス革の靴」がたまたま同音の「ガラスの靴」となって英語に伝わった
のではあるまいか。
年甲斐もなく、この発見に少しく興奮した。唯、このままでは推測にすぎない。
ほしいのは確認である。
(エピローグ)
あっさり解決しました。
別の図書館で調べた百科事典 Encyclopaedia Britannica (ed. 1965) の
Cinderella の項には
英語の glass slippers はフランス語の pantoufle en vair を en verre と
誤訳したものである旨の説明がしてありました。
この事典に最初に遭遇していたら良かったのに・・・。
でもまあいいか。いろいろ分かったんだから。
(おわり)
*こんな話、先刻知ってたよ、とおっしゃる諸兄姉にはとんだ暇つぶしでご免なさい。
(伊藤)
<引用終わり>
いやー、知りませんでしたね。vair -> verre の誤訳だったんですか。でも、私の
見た絵本でも、あるいはひょっとして、昔子供の頃に見たディズニーのアニメ映画で
も、シンデレラの靴はガラス製だったような気がします。ちなみに、研究社の「New
English-Japanese Dictionary」で glass slipper を引いてみたら、ある、ある、ち
ゃんと書いてありますね。
glass slipper 【《なぞり》←F pantoufle en vair (fur slipper):
vair (fur) を verre (glass) と誤訳】n. (シンデレラ(Cinderella)の)
ガラスの靴。
でも、この誤訳がそれほど well-known ならば、なぜ絵本のシンデレラは何時まで
もガラスの靴をはき続けているのでしょうか?
第151号 −− びくともせずに揺れに揺れる −− 1999.09.05
9月3日付け毎日新聞の「余録」に、次のような記事があり、私は読んでいて引
っかかりました。
<引用開始>
頑固で貧乏暮らしを続けている大工、のっそり十兵衛が谷中・感応寺の住職に懇
願して五重塔を建てた。落成式間際に大あらしが襲い、烈風強雨に五重塔は揺れに揺
れた。
「出来上がりし五重塔は揉(も)まれ揉まれて九輪は動(ゆら)ぎ、撓(たわ)む
姿、木の軋(きし)る音、復(もど)る姿(さま)、また撓む姿、軋る音、今にも傾
覆(くつがえ)らんず様子に・・・・・」。幸田露伴「五重塔」のクライマックスで
ある。だが、五重塔はびくともしなかった。たわみ、きしむことで抵抗力を保持した
のだ。
(以下、省略)
<引用終わり>
私が引っかかったのは、「だが、五重塔はびくともしなかった。」という箇所で
す。「びくともしなかった」というのは「微動だにしなかった」と同義語だと思って
いたので、今にもくつがえらんとするほど大揺れに揺れている五重塔を「びくともし
なかった」と表現するのは矛盾しているのではないかと感じたからです。
そこで、手持ちの国語辞典で「びくともしなかった」を引いてみました。
まず、岩波「広辞苑」には記載無し。
角川必携国語辞典では、
【びくともしない】少しも動かない。また、少しも動揺したり影響を受けたりしない。
「おしても−」「少々のことでは−」
小学館・現代国語例解辞典では、
【びくとも】[副]《打消を伴って》ほんの少し動いたり、驚いたりするさま。「び
くともしない〔=少しも動かない,また、驚かない〕
三省堂・大辞林では、
【びくとも】[副]スル わずかに動いたり、動じたりするさまを表す語。現代語で
は下に打ち消しの語を伴う。「地震にも−しない塔」「そんなおどしには−せぬ」
「−せば打ち殺す/浄・菅原」
という具合ですから、大風によっておおいに揺れ動き、非常に影響を受けている塔を
「びくともしない」と表現するのは、やっぱりおかしい。
まあ、学研・国語大辞典に
【びくとも】[副]{下に打ち消しの語を伴って}まったく動かないようす。また、
まったく動じないようす。「(胡桃ヲ挟ンダナット・クラッ カーハ)きゃしゃな
自分の力では−しない(永井龍・胡桃割り)」「サメの生命力は強靱で、少々突い
たり切り裂いたりしたくらいでは−せず、(北・どくとる・・・・)」
とありますから、五重塔をサメなみに見れば、突いたり切り裂いたりされてバタバタ
のたうち回っても、生命には別状無い、という例から類推して、強風でおお揺れに揺
れても、破損個所は皆無だった、という意味に解釈できなくもないようです。「余録」
の筆者もそのつもりで書いたのでしょう。しかし、その解釈をするためには、五重塔
は大工・十兵衛の魂が乗り移った生き物のように擬人化して、「見かけは大揺れでも、
心の中はまったく動じない」というように考える必要があるのではないでしょうか。
私の結論としては、まったく誤りとは言い切れないが、あまり適切な表現とは思
えない、というところです。