このページは Netscape Ver3 以上推奨です。
見づらかったり表示が重いとお嘆きの方はこちらをどうぞ
情報数学研究室 柴田勝征研究室 言問い亭メニュー

言問い亭10月号 (2011年)


 言問い亭10月号 小目次 

  •  第516号 −− チョムスキー普遍文法のIPパラメータ値は複合数詞の結合順序と
         完全に一致する / ピアジェ=チョムスキー論争、ピアジェ=ヴィゴツキー
         論争の『決着』を覆す新しい世界認識制御因子の発見 / 福岡の小学校教師
         たちの算数教育における驚くべき成功の言語学的解明 −−
    2011.10.20


  •  第515号 −− 『中国語は本当に前置型?』『前置型・後置型で世界の言語は
        本当に分類できる?』/ 『主要部パラメータ』は本当に存在するのか、
        を疑うのが最近の流行 −−
    2011.10.19


  •  第514号 −− 欧米の算数教育では19までの数とそれ以上の数をどうしても
         分離して教えざるを得ない言語的理由がある / 日本語(および
        朝鮮語、ハンガリー語)には、その様な『欠陥』は無い!! −−
    2011.10.12


  •  第513号 −− 児童の学習における算数の計算順序と
         チョムスキー普遍文法理論の主要部パラメータ値との間の関係 /
        上の位からの足し算・引き算をした方が良いかどうかは、
         主要部パラメータの値で決まるか −−
    2011.10.10


  •  第512号 −− 抽象的概念から具象的把握へ
           / 子どもの認知レベルの発達の順序 −−
    2011.10.08

  •  第511号 −− NHKはなぜ発言者の言ったことを次々と書き換えたテロップを
        流すのか? これは明白な情報改ざんの連発ではないか −−
    2011.10.07





    チョムスキー普遍文法のIPパラメータ値は複合数詞の結合順序と
      完全に一致する / ピアジェ=チョムスキー論争、ピアジェ=ヴィゴツキー
         論争の『決着』を覆す新しい世界認識制御因子の発見 / 福岡の小学校教師
         たちの算数教育における驚くべき成功の言語学的解明 −− 2011.10.20


    For an English summary 英語版,  click here!
     私はこれまでの「言問いメール510号、513号、514号、515号」を通して、 英語、ドイツ語、フランス語、ポーランド語、フィンランド語、ハンガリー語、日本語、 朝鮮語、アラビヤ語、中国語における普遍文法理論の主要部前置・後置パラメータと11 から19までの複合数詞の結合の順序に完全な照応関係があることを明らかにしてきま した。その後さらに、トルコ語、モンゴル語、ヘブライ語、ヒンディー語、インドネシア 語、ベトナム語、スペイン語、イタリヤ語も調べましたが、私の仮説に対する反例は1つ も見つかっていません。しかも、その調査の過程で、私の仮説は次のような総合的な仮説 へと発展を遂げました。 [ズーム・アウト/イン仮説] 世界の全ての言語話者は、以下の3つの認知分野で、タイプ(A)ズーム・アウト型、タ イプ(B)ズーム・イン型、の2つの内のいずれか1方に分類される。3つの分野の内の 1つでタイプ(A)あるいはタイプ(B)と決まれば、残りの2つの分野でも同じタイプを 取る。 (I)言語のタイプ(前置・後置)  (A)基本的に主要部前置型(1部に例外現象があることもあり)     地理的には圧倒的にヨーロッパおよび中東に多い。  (B)基本的に主要部後置型あるいは後置と前置の両面があり、いずれか一方である とは決定しにくい。     地理的には圧倒的にアジアに多い。 (II)11以上の複合数詞の結合順序  (A)「1の位の数(またはそれの短縮形)」 +「10(または10の数詞を短縮した接尾辞など)」     という順序で結合されるが、数が大きくなって行くと、あるところで結合順序 が突然逆転して、「上位の数」+「下位の数」という順序にかわる。どこで逆 転するかは、言語族によって異なる。   (例)ゲルマン、アラブ、ヘブライ:99を越えると逆転      スラブ、英語、:19を越えると逆転      フランス語、イタリヤ語:16を越えると逆転      スペイン語、ポルトガル語:15を越えると逆転  (B)11から無限大まで一貫して上位の位から下位の位へという順序で数字を並べ て行く。 (III)社会的な空間認知(住所)、時間認知(年月日)、人間関係認知(姓名)  (i)住所の表示   (A)Nanakuma 1-1, Johnan-ku, Fukuoka City, Fukuoka Prefecture, Japan のようにズーム・アウトする。   (B)福岡県福岡市城南区七隈 1-1 のように「大 -> 小」とズーム・インする。  (ii)暦の年月日の表し方   (A)The 4th of July, 1776 ( = 4_7_1776) のようにズーム・アウトする。   (B)1776年7月4日( = 1776_7_4) のようにズーム・インする。  (iii)姓名の表し方   (A)Isac Newton のように「名前」+「姓」の順序で表す。   (B)湯川秀樹 のように「姓」+「名」の順序になる。  以上のことは、人間の言語、数、社会的空間・時間・人間関係認知という3つの分野 を横断的にズーム・イン/アウトの制御している単一のパラメータが存在することを示 しています。このパラメータは最初にチョムスキー普遍文法理論の主要部パラメータと いう形で発見されましたが、実は言語理論に限定されたものではなく、もっと人間の認 知のあり方の根本を規定する、「言語」「数」「社会関係」の分類よりも一歩メタレベ ルが高いパラメータだと言えます。 (2011年12月29日注: 松本克己「世界言語への視座:歴史言語学と言語類型 論」(三省堂,2006年)を参照することによって、人間の認知傾向一般を制御して いるズーム・イン/アウト型パラメータと言語分野のみを支配している主要部前置・後 置パラメータはまったく独立に獲得されていることが判りました。人類文明発生以来、 数千年の間、印欧語の主要部前置・後置パラメータの値は激動したにも拘わらず、ズー ム・イン/アウト型パラメータの値はほとんど微動だにしていないことが判りました。)  このことは既に、世間で今まで、「西洋医学と東洋医学の発想の違い」などと言われ たりして、漠然とは認識されてきたことですが、それをもう少し厳密に検証してみたわ けです。  かつて、ピアジェ=チョムスキー論争(「言語能力」の獲得は一般的な学習理論から 説明できるか、あるいは言語独特の生得的な脳内モジュールが存在するか)やピアジェ =ヴィゴツキー論争(「言語」を単に他人とのコミュニケーション手段と考えるか、そ れとも自己内部の思考の手段としての『内言』も考えるか)というのが有りましたが、 それらを再吟味する必要が生じてきました。  おりから、最近は国際的な言語学会でチョムスキーの『主要部前置・後置パラメータ』 そのものが正しかったかどうかを疑う研究が流行しているそうですが、それを「言語学」 という狭い範囲に限って、いろいろな『反例』を見つける競争をしているならば、視野 が狭くなりすぎて、人間の知能の総合性という本質を見失うことになるのではないでしょ うか?  これはちょうど、「光は粒子か、波動か」というニュートン・ホイヘンス論争で、一 旦はホイヘンスの波動説が勝利したように見えて数百年が過ぎ、アインシュタインの 「光量子説」が出て見直しがおこなわれ、これがさらにド・ブロイの「(光量子に限ら ずすべての粒子に関する)粒子波動説」として発展してゆくことになるのですが、認知 理論においても、そのような総合的な見直しが必要になっていると考えます。  そして、このことが、福岡の小学校の先生たちの算数教育における驚くべき成功の理 由であり、彼女達の教育実践の成果は、教師個人の力量に依るものではなく、久留米の E教諭、I教諭、K教諭、M教諭を始めとする学校ぐるみ、地域ぐるみの3年間の取り 組みで、例外なく大成功をおさめている、ということは、完全な再現性、普遍性がある、 ということです。また、別の市におけるS教諭の「大きな数を数えられるようにする」 教育実践も、今後ますます普及して、再現性、普遍性を立証する見込みです。
    この記事に関するご感想・ご批判・コメント・お問い合わせなどは下記アドレスまでお願いします。
    ロボットによるスパム・メール用アドレス自動収集に対する対策として、
    下記のアドレスには末尾に自明な間違いを追加してあります。

    kshibata@vin.sm.fukuoka-u.ac.jp.jp

    10月号小目次 へGO!









  • 『中国語は本当に前置型?』『前置型・後置型で世界の言語は
        本当に分類できる?』/ 『主要部パラメータ』は本当に存在するのか、
    を疑うのが最近の流行


    For an English summary 英語版,  click here!
     「言問いメール13号、14号」で、私は合成数詞の結合順序と普遍文法理論の主要 部パラメータ値の間には強い相関関係がある、と主張しましたが、実は、1つだけ、気 になっていることがありました。中国語の問題です。中国語は、主要部パラメーターが 明らかに日本語とは反対で、だからこそ、我々日本人が『漢文』を読む時には『返り点』 (カタカナのレの形をしているから『レ点』とも言いますね)を附って、動詞と目的語 名詞の語順を逆転させたり、前置詞を後置詞に読み替えたりして語順をひっくり返さな いといけないわけですよね。でも、中国語の複合数詞語順だけは日本語と同じように、 「じゅう」+「(1の桁の数)」となっていますよね。と言うよりも、むしろ、その書 き方は中国から漢字と共に伝来したものであって、日本古来の数字の読み方は10まで しか無くて、「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、 ここのつ、とお」です。ハングルでもまったく同様に、いくらでも大きな数を表すこと も出来る漢数字のほかに、朝鮮古来の固有数詞というのがあって、「はな、とぅる、せ、 ね、たそっ、よそっ、いるごっぷ、あほっぷ、よどる、よる」と10まで続きます。 「はなから」と日本語でも言いますが、あれは朝鮮の固有数詞の「1」なんですね。 ハングルの漢数字は、もともとが中国の発音を朝鮮風に発音しているだけですから、 日本語の漢数字の読み方と、あまり大差はありません。  で、どうして「前置」型の中国語(と私は思い込んでいました)が複合数詞の形成で、 「十」+「(一の位の数)」という結合順序になるのか、その理由を知りたいと思いま した。  まず、「前置型」「後置型」で世界中の言語を2つに分類する分け方の他にアウグス ト・シュライヒャーが提唱した、「屈折型」「膠着型」「孤立型」という3つの型に分 類する考え方があります。「孤立型」というのは、Wikipedia で見てみると、中国語、 ベトナム語、などアジアの一部に限定して使用されている地域限定的な言語です。私が 「言問いメール13号、14号」で取り上げた言語はすべて屈折型および膠着型の言語 ばかりであって、孤立型の言語はひとつもありません。だから、私が発見した法則は、 ごく少数の「孤立型」をしている言語を例外として、すべての屈折型および膠着型の言 語には成り立つ法則ではないか、と考えました。  私が、このように「少数の例外を除けば成り立つ法則」という考え方をしたのは、若 い時に似たような見聞をしているからです。私は今から40年くらい前に、フランスに 留学して、パリ郊外の高等科学研究所で開かれる数学のセミナーに時々参加していまし た。当時私が研究していた同境理論の大家で、その理論を創設した業績によってフィー ルズ賞(数学のノーベル賞みたいなもの)を受賞したルネ・トムが、そのころは多変数 関数のゼロ点集合の特異点の位相的な分類の研究をやっていて、それが「カタストロフィー 理論」に発展してゆくわけですが、トムの講演は私には難しすぎてほとんど分からなかっ たけれど、美しい景色を見に行く様なつもりで、後ろの方の席に座って、トム大先生が 喋る姿を眺めていました。そのセミナーには毎回、最前列に草食系みたいな感じの若い 痩せた男が座っていて、トムが毎回、「こういう定理を発見した」と黒板に数式を書い て、「その証明は次のように...」と解説を始めようとすると、「その定理、ダメですよ。 ほら、こういう反例があるでしょ」と言ってツカツカと黒板に歩み寄って、数式を書く のです。トムはニコニコ微笑みながらそれを見ていて、「なるほど。じゃ、こういう制 限条件を付けよう。そうすれば、君の反例は排除されるわけだ。そして、その条件で排 除される関数集合は測度ゼロだから、全体にはほとんど影響を与えないわけだ。」と全 く問題にしません。青年の方も、いつもアッケラカンとして、「あっ、そ。じゃ、他の 反例も考えておくからね。」と言ってあっさり引き下がるのです。  この青年はベルギーから来ている留学生で、ピエール・ドリーニュという名前の秀才 だ、と聞きましたが、このドリーニュも数年後にはフィールズ賞を受賞することになり ます。 【閑話休題】  話を「漢数字」に戻すと、日本人は元来、自分たちで文字を発明することが出来なかっ たので、当時の世界最先端の文明国であった中国から漢字というものを輸入したわけで すが、その文字システムが日本語の表現とは巧くマッチしなかったので、「万葉仮名」 として表音文字として利用したり、中国語には無い助動詞などの機能語を表現するため に漢字を崩し書きして「ひらがな」を、また漢字の一部分を抜き出して「カタカナ」を 発明しました。これ以降の時代にも、日本人は外国の文化を輸入しても、それを日本人 の認知様式や表現方式に合うように修正しながら活用してきました。だから、中国から 輸入した「中国式位取り記数法」が1500年の長きに渡って変形を受けずに保たれ続 けた、ということは、それが日本人の思考パターンにもよくマッチしていた、というこ とを表していると思います。  そういう考え方について専門家のご意見を伺おうと思って、中国学が専門の同僚教授 である福岡大学のAさんに質問してみました。彼の説明によると、中国人の伝統的な 「ものの考え方」は、「大から小へ、高から低へ、広から狭へ」と流れて行くのだそう です。だから、数字の表現も、大きい桁から始まって、だんだん小さい桁の表現に移動 して行くのが自然な表現形式であり、日本に輸入された中国式数字表現が現在まで保た れているのは、私が考えたように、日本人も同様の発想法をしているからだ、と彼も同 様の感想を持っていることが分かりました。それから彼は、「しかし、私はチョムスキー 普遍文法理論にはまったく素人だから、専門家である英語科のB教授に聞いてみたら好 いんじゃないでしょうか」というアドバイスをしてくれました。  そこでさっそく、Bさんに電話して、上のようないきさつをお話ししたところ、彼は 私がビックリするようなことを言いました。「中国語は、句構造文法理論で言うところ の『句の内部構造』に関してはおっしゃる通り主要部前置型なんですが、主語・述語を まとめた「文」としての主要部パラメータは、日本語と同様に文の最後尾に来るんです。 日本語では、平叙文を疑問文に変えるには、文の後ろから『か』という疑問文マーカー をつければよいわけですが、中国語でもまったく同様に、平叙文の後ろから『マ(口偏 に馬と書く漢字)』を付ければいいんです。」  それに対して、英語なら、 You smoke => Do you smoke? のように、普通動詞の平叙文には Do (Does) を文頭に付ければ、疑問文になりますねえ。  Bさんは続けます。「英語話者の幼児は、母語が主要部前置型だと知っていても、 文型によっていくつかの疑問文の作り方があることを未だ良く理解していないと、 he can swim => Is he can swim? のように、(脳内の)辞書から「Is」を持ってきて文頭に付加するような誤りを犯すこ とが報告されています。助動詞構文の場合には、文の外から単語を持ってくるのではな くて、文中の助動詞を先頭に移動させて疑問文を作らなければいけないんですね。」 なるほど。フランス語なら、文中に助動詞が有っても無くても、機械的に Tu peus nager => Et-ce-que tu peus nager? (君は泳げる)  (君は泳げるか?) のように「Est-ce que」(英語に直訳すれば「Is it that ....」)を文頭に付加すれば、 たちまち疑問文が出来上がるのですが、同じ「主要部前置型」と言っても、言語によっ て、いろいろ細かい事情は異なるわけですね。 「中国語の場合に戻ると、区構造の内部では前置だけれど、文のレベルでは主要部後置 型なので、全ての言語を前置型と後置型に2分類するのはちょっと無理なのです。その 他にも、いろいろと、言語によっては、句構造内部でも既に前置とも後置とも決めにく い反例現象があって、最近の文法理論の研究では、そもそも『主要部パラメータ』とい う概念が正しかったのか、と疑うような趣旨の論文が流行っているのです。最近の『Nature』 誌に載った論文では、約3000の言語について、これこれの点が主要部パラメータの原則 を満たしていない、という一覧表を提示しているものがあります。」ということでした。  うーん、それは困りましたね。なにしろ人工的に作ったコンピュータ言語とは違い、 人間が日々使っている言葉ですから、どんどん変化してゆくし、外国語からの影響でか なり変化することもあるし、いろいろ一貫性を満たさないところがあるのはむしろ当然 で、それでもなお、大部分の事柄については原理的な一貫性を持っている部分が多いか らこそ、主要部パラメータの原理という概念が提唱されたんじゃないですか。  そもそも、チョムスキーが普遍文法理論を作った時に参考にしたのは主として英語だ と思いますが、その英語だって、形容詞が名詞を修飾するときの語順が、主要部である 名詞が前置しないという主要部パラメータの原理を満たさない泣き所があったわけでしょ う? ま、それで、もう1つ別の原理も立てて、2つの原理が矛盾した時には、どういう 場合にどちらの方を優先するか、というような優先順位を決めて解決したのだと想像し ますが、どの自然言語にも、多少のそういう例外現象や、『例外の例外』みたいな部分 がいくつか有るのは、しょうがないんじゃないでしょうか。  原則として形容詞に対して名詞が前置するフランス語の場合でも、 petit cadeau, jolies fleures (小さな贈り物)(美しい花) のように、短くて日常頻繁に用いられる形容詞の場合には名詞が後置されるという例外 がありますし、また、名詞が前置される場合と後置される場合で意味が異なる grands hommes et hommes grands (偉大な男たち)と(背が高い男たち) のような例が幾つか有ります。そういえば、先週10月14日のラジオ・フランス語講 座で、慣用表現として C'est bonnet blanc et blanc bonnet. (それは、白い縁なし帽と縁なし帽の白いのだ。  = それは似たり寄ったりだ。) というのを紹介していました。  それとソックリ同じ現象が、名詞が原則として形容詞に対して後置するポーランド語 の場合でも起きます。 wspo'lczesna muzyka, musyka wspo'lcjesna (現代のポーランド音楽一般)(ジャンルとしての『現代音楽』)  英語学科のB教授の紹介で、Cさんという中国の人で、福岡大学で中国語を教えて いる言語学者と話をすることが出来ました。Cさんは、「私は個人的な感覚では、中国 語の語順は英語よりも日本語に近い点もあるという感じを持っています。普通は「語順」 というと「SVO」とか「SOV」などのことを言う場合が多いので、そういう点では 中国語は「SVO」ですから「中国語の『語順』は英語と同じ」とよく言われるのです けれど、疑問文は文末に「マ」を付けるだけでよいとか、名詞を説明する文章は、英語 なら必ず名詞の後に関係代名詞を使って接続させますが、中国語では日本語と同じで、 必ず前から修飾させます。」と言っていました。私が、「ああ、それは、『我昨天購入 了的書』(柴田:私が高校生時代に習った漢文の知識を使ってでっち上げたニセの中国 文)のように『的』を使って名詞を前から修飾させるんですよね。」と聞くと、「はい。 まあ、そういうような感じになるのですけれど、正しくは『我昨天買的書』で『買』と 『書』は現代では簡略体を使います。それから、この『的』の文法的な機能をチョムス キー流の考え方で説明するのはたいへん難しいです。」というお答えでした。たしかに、 『的』を関係代名詞や関係副詞と考えることは困難ですよねえ。ところで、英語では、 関係代名詞の係り先は『先行詞』という名前の通り、前置される名詞なので主要部前置 型という原則に合致しているのに、形容詞が単独に名詞を修飾する時だけは、その原則 を破って、名詞が後にきてしまうのです。「私が若い頃に学校かどこかで勉強した英文 法では、動詞を含む文が名詞を修飾している時は『形容詞節(clause)』と言い、動詞を 含まない単語(あるいは単語列)が名詞を修飾している時には『句(frase)』というよう に区別していたと思うのですが...」と質問したところ、Cさんは、「はい。そうなん ですが、チョムスキーは、そういう区別をしていないんです。すべて『句』と言ってい ます。私も、チョムスキーが『句』と呼んで一括している物たちをもっと階層的に区別 しないといけないと考えています。」ということでした。私も、賛成。  ところが、このような主要部パラメータ原理に例外がほどんど見つからない『完璧な 前置型』の言語が意外にも、私たちの近くに存在することを発見しました。それはイン ドネシア語なのですが、それについては、また回を改めて解説します。 [訂正とお詫び: 2011.10.15]  後日、私の携帯の数字キーをよく見てみたら、M君がいうところの「ヨーロッパ式」 の並び方をしています。「機種が古いからかなあ?」と訝って、次の週のゼミの時に M君に確かめてみたら、「済みません。あれと混同してました」と机の上に置いてある パソコンのテン・キーを指さしました。たしかに、パソコンのテン・キーは 789 456 123 <0> . という配置になっていました。どうして、このような配置になっているのか御存知の方 がおられたら教えて下さい。  と言うことで、学生の言ったことの裏を取らずにそのまま報道してしまって、大新聞 の記者と同様の失敗をしてしまいました。済みません。 トホホ...。 [訂正とお詫び、終わり]
    この記事に関するご感想・ご批判・コメント・お問い合わせなどは下記アドレスまでお願いします。
    ロボットによるスパム・メール用アドレス自動収集に対する対策として、
    下記のアドレスには末尾に自明な間違いを追加してあります。

    kshibata@vin.sm.fukuoka-u.ac.jp.jp

    10月号小目次 へGO!









    欧米の算数教育では19までの数とそれ以上の数をどうしても
        分離して教えざるを得ない言語的理由がある / 日本語(および
    朝鮮語、ハンガリー語)には、その様な『欠陥』は無い!!


    For an English summary 英語版,  click here!
     福岡県の小学校教諭のS先生は、小学校1年生の数の指導で、学習指導要領では1年 生は19迄の指導を「10といくつ」というやり方で指導することになっているけれど も、10ずつの固まりを子どもたちに作らせて、どんどん大きな数を数えさせるように 工夫をして指導したところ、子どもたちがみんな何でもかんでも数えたがるようになり、 「20までの数」という指導要領の制限を軽く越えて、500前後の数までみんなが一 気に数えられるようになった、という驚くべき教育実践を報告しています。  日教組第60次教育研究集会数学教育分科会レポートから部分的に引用させて頂きま す。 <S教諭のS先生のレポートからの引用開始> 1.はじめに  現任校に赴任して7年目を迎える。高学年の実態を目にして、1年生のときから数の 概念を丁寧に指導することの重要性を改めて認識した。そこで、1年生を担任して入門 期からの数との出会いを大事にしたいと考えた。 [数範囲を『60』までに広げる  教科書では、『10』までを指導した後、『20』までに区切って指導する。『20』 までの数であると、『9,10,11,12,13,...』と一続きに数えれば分か るので、10のまとまりをつくる必要はない。だから、10ずつかためて数える良さを 実感することができない。  子どもたちは、『50』以上の数を生活の中で唱えて遊んでいる。『20』までの数 では、数える楽しさを味わうことができず、子どもたちの学習意欲を高めることもでき にくい。そこで、数範囲を『20』までに区切らずに、『60』ぐらいまでに広げるこ とを考えた。 [手作りカウンターを作り、位取りを教える]  教科書では、『20』までの数の指導において、『10とあといくつ』という数の構 成を捉えさせる内容になっており、位取り記数法を扱うわけではない。これでは、子ど もたちには表記の意味はわからない。  そこで、指導にあたっては、紙粘土でたこ焼きをたくさん作らせ、10穴のうずらの たまごパックに詰めて、パックの個数を手作り<+>カウンターに表していく。その後、 ばらを<−>カウンターに表し、両者を接続して、位取りへと結びつけていくようにし たい。 (柴田の注:要するに、『手作りソロバン』ですが、それを、子どもたちが喜ぶように たこ焼きと、それを詰め込む穴あきのうずらたまごパックで実現したところが、小学校 の先生でないと思いつかないような生活臭あふれる教材。) [百の位を数えて、500前後まで数えさせる]  新教科書では、120前後の読み書きは扱うが、百の位は教えていない。子どもたち は、一の位、十の位は、すでに学んでいるので、「十」が10個で「百」を学ぶときに、 百の位を教えるのが好機であろうと考える。数える体験として、120前後にとどめず に、500前後の身の回りにある具体物を数えさせていきたい。 [十ずつ、百ずつまとめて数える体験を重視する]  子どもたちは、数えることそのものに興味をもつ。たくさんの物を目の前にすると、 自然に数え出す。そこで、子どもたちの興味に即し、身の回りにある様々なものをでき るだけ多く準備することで、10ずつ、100ずつ数える活動を仕組んでいく。10ず つまとめる道具として、ぴったり10個入るケースを使う段階、10個数えて自分で閉 じる段階、10個を別物と置き換える段階、動かない物を10個ずつ囲む段階へと発展 させていくようにしたい。 (中略: 授業の実際の様子が、豊富な写真と絵図で詳しく解説されています。『たこ 焼きやさんごっこ』楽しそうですよ!) 5.成果と課題  ●10ずつまとめて数えるという体験があまりないこどもたちにとって、たくさんの 数を数えることを楽しんだ体験が、かたまりを実感しながら数をとらえていくことにつ ながり、本当の意味での理解につながるということを痛感した。  ●手作りカウンターを作って位取り記数法を捉えさせることを重視したことによって、 どの子にも理解を助けることとなった。さらに、数が苦手な子が自分の力で位取り記数 法をとらえていく手助けとなり、手作りカウンターは大変有効な手だてであると感じた。  ●1年生で数の学習を進めていく際に、指導主事が「20までのかずで『10といくつ』 の数の構成をおさえた後にそれ以上の数を扱うという順番は替えられない」と断言した が、この実践を通して十進位取り記数法のしくみを初めから丁寧に扱っていけば、あえ て『10といくつ』の数の構成を扱わなくても十分理解できることが明らかになった。 <S先生のレポートからの引用、終わり  うーん、すごい! 驚くべき実践報告ですね。いや、本当に恐れ入りました。『目か ら鱗が...』という感じです。  ところで、最後の方に書いてある、指導主事が「20までのかずで『10といくつ』 の数の構成をおさえた後にそれ以上の数を扱うという順番は替えられない」と断言した のはなぜでしょうか。それは、もちろん、学習指導要領に、そのように教えろ、と書い てあるから、「変えられない」わけです。それではなぜ、学習指導要領には、そんなお かしなことが書いてあるのでしょうか。それはもちろん、日本の数学教育研究者が、そ んな愚かなことを猛烈に主張しているからです。それではなぜ、日本の数学教育研究者 は、そんな愚かなことを主張しているのでしょうか。それは、欧米の数学教育研究者が そのように主張しているからです。「欧米は進んでいるが、日本やアジアは遅れている から、欧米から学ぶのだ」と、欧米の『権威』に盲従して、欧米人の書いた研究論文や ら指導書などを引用して、カッコウを付けて(権威を付けて)いるのです。  ところが、欧米の数学教育研究者がそういう教え方をせざるを得ないのは、彼らの言 語に、アラビア式位取り記数法とは相容れない困った『欠陥』があるからなのです。日 本語や朝鮮語、そしてチョムスキーの主要部パラメータの値が『後置』になっているハン ガリー語には、そのような『欠陥』が無いのです。そして、アラビア式位取り記数法を 用いているのだから、もちろん、アラビア語にはそのような『欠陥』はありません。と ころが、そのアラビア語の主要部パラメーター値は、なんとヨーロッパ言語と同じ「前 置」なのです。えーっ、それならどうしてヨーロッパ言語みたいな『欠陥』が発生しな いのですか、と思うでしょう? 思わない人はチョー鈍感。  だから、生きている言語はものすごく不思議で面白いのです。その秘密をこれから順 番に解説してゆきます。  前回の「言問いメール513号 / 児童の学習における算数の計算順序とチョムスキー 普遍文法理論の主要部パラメータ値との間の緊密な関係」で図示したように、西洋言語 (ハンガリー語を除く)では、11から19までの数詞は、1から9までの数詞を用い て        11  12  13   14   15  16  ------------------------------------------------------------------ 英語: eleven twelve thirteen fourteen fifteen sixteen ドイツ語: elf zwelf dreizehn fierzehn funfzehn sechzehn フランス語: onze douze tre'ze quatorze quinze seize ポーランド語:jedenas'cie dwanas'cie trzynas'cie czternas'cie pie,tns'cie szesnas'cie フィンランド語: yksitoista kaksitoista kolmetoista neljatoista viisitoista kuusitoista のように、「1の位の数詞の主格」+「10を足すことを表す接尾辞」という構成になっ ています。太古の人類は、おそらく10までの数詞があれば、日常生活には十分だった ことでしょう。それに、十までの数であれば、手の指を使っても計算できますから、便 利です。それで、各国の言語では、1から十までが基本数詞(複合語ではない)となっ ているのでしょう。そして、英語、ゲルマン系諸語、ラテン系諸語、スラブ系諸語の基 本数詞は明らかに音韻的な類似が認められますから、これらの数詞が誕生したのは、ま だこれらの言語が分離する以前だったように見えます。ただし、フィンランド語は明ら かに違う音韻系統ですし、実際、言語分類表でも「ウラル・アルタイ系の内のウラル語 族」とされています。どちらかと言えば、アジア系の言語です。  ところが、だんだんと人々が生活する集落の規模が大きくなってくると、10までの 数では必要がまかないきれなくなります。人間も生活物資も数が増えて来たからです。 そこで、新しく、大きな基本数詞を作ったかというと、そうではなくて、既にある基本 数詞を用いて大きな数を作る、という『智の省エネ』をやったわけですね。そのときに、 主要部パラメーターが『前置』になっているヨーロッパの人々は、主要部である1の位 を前置させて、例えば英語の14ならば、「fourteen」=「4(four)」+「10(teen  = ten)」のように結合させたわけです。  ところが、ところが、さらに集落はふくれあがり、人も物もどんどん数が増えてゆく と、20あるいはそれ以上、もっと大きな数が必要となってきます。そこで人々は、さ らに大きな数を人工的につくりました。大きな数は位がたくさんあるので、先ず、どの くらい大きいかが聴いていてすぐに聞き分けられる方が良いので、当然、大きい位の数 から言ったり書いたりすることになります。日本人は、それでちっとも困らないのです が、ヨーロッパ人にとっては非常に困った事態になったわけです。英語の例で言うと、 「14」と「40」が、いずれも「4」+「10」で表されることになったわけです。 「フォーティーン」と「フォーティー」の違いだけですから、これを一度に教えると、 子どもたちは、よほど利口で注意深い子どもでないと、何が何だかわけが分からなくなっ てしまうことになります。日本語なら、「じゅうよん」と「よんじゅう」を聞き間違え ることは、まずありません。  ヨーロッパ言語では、20以上の数が人工的に作られた時代には、11から19まで の数の呼び方は既に日常生活に定着してしまっていたので、いまさら語順を変更すると 返って混乱が増大するのではないか、という危惧から、昔通りの数詞が維持されたもの と推測します。そこで、19迄の数の呼び方と20以上の数の呼び方が、完全にひっく り返っているので、どうしても一度には子どもたちに教えることが出来ないわけです。 まず、19までの数の呼び方をしっかりと定着させた後でないと、20以上の数が教え られない根本的な理由がここにあるわけです。これは、主要部パラメーターが『後置』 になっている日本語、朝鮮語、ハンガリー語ではまったく考えられない現象です。我々 の言語では、1から無限大に至るまで、数の表し方は完全に首尾一貫していて、これら の言語では、数を教える際に「19まで」と「20から」なんて区切る必然性は皆無で す。 -----------------------------------------------------------------        11  12  13   14   15  16  ------------------------------------------------------------------ ハンガリー語:tizenegy tizenketto tizenha'rom tizenne'gy tizenot tizenhat 御覧のように、10 (ti'z) を格変化させて tizen にして、後ろから   egy, ketto, ha'rom, ne'gy, ... (= 1,2,3,4,...) を後置しています。 -------------------------------------------------------------------  すなわち、我々(日本人、朝鮮人、ハンガリー人など)は、主要部パラメーターが 『後置』である言語の母語話者ということで、数の理解においても、大きな数の足し算 ・引き算においても、圧倒的に優位な立場に立っている、世界の少数派民族なのです。  これまでの算数教育は、そのような決定的弱点を抱えた欧米式の教育方法を強制する ことによって、潜在的には才能があったかも知れない子どもたちを大勢落ちこぼれさせ て来たのではないでしょうか。算数で落ちこぼれてしまうと、進学や就職において決定 的に不利になり、ひいては、社会のセーフティーネットからもこぼれ落ちて、悲惨で短 い生涯を送ることになる可能性が高いと思います。そういう人々を大勢生み出してきた、 欧米崇拝の日本の数学教育研究者たちは「万死に値する」と思います。  ところで、アラビア式位取り記数法の本家本元であるアラビア語はどうなっているの でしょうか。実は、最初にも書いたように、アラビア語は主要部パラメーターが『前置』 なのです。それではなぜ、アラビア語の、例えば、14は「4」+「10」ではなく、 「10」+「4」のように見えるのでしょうか???  ヒント:かなり前の話しになりますが、NHKの朝の連続テレビドラマで、太平洋戦 争以前の醤油造りの一家が主人公のものがありました。私もときどき見ていたのですが、 あるとき、鉄道の駅の看板が「しふて」となっていました。さあ、どこの駅でしょう?  上の問題へのヒント:「太平洋戦争以前」ということと、「醤油造り」という所が重 要なポイントです。 [正解]戦前の醤油は、野田の「キッコーマン」と銚子の「ヒゲタ」が2大銘柄でした。 (2011年12月27日追記:銚子にはもう一つ有名な「ヤマサ」という醤油会社が ありました。) はい。正解は「銚子」です。日本人は、太平洋戦争以前には、横書きは右から左へ書い ていたのです。すなわち、「てふし = ちょうし」です。「てふてふ」なんていうのを、 若い人は見たことが無いかも知れませんね。現在でも、左利きの人は、横書きを左から 書くよりも右から書く方が書きやすいかもしれません。日本人には左利きが多かったの かも知れません。左利きということは、右脳型の人間である、ということです。欧米人 は、言語活動が発達・進化している(簡単にウソがつけるし、言葉による詐欺に騙され にくい)ので、左脳型の人が相対的に多いと思います(言語野は左脳に遍在している)。  で、アラビア語は右から横書きするので、「14」というのは、彼らは右から見てい るのです。だから、右にある「4」が先頭だから、主要部パラメーターが『前置』なの です。他動詞の目的語の名詞は左側に書かれるので、日本人が単語の列だけを見ると、 日本語と同じ語順だなあ、と錯覚するかも知れませんが、彼らは右から横書きするので、 動詞が右にある、ということは、「前」にあることになるのです。  太平洋戦争直後に日本を軍事占領したアメリカの占領軍司令部の人たちが、「横書き を右から書くなんてけしからん。これこそが日本が軍国主義国家になった原因の1つだ」 とか考えて、強制的に横書きを「右から書き」から「左から書き」に改めさせたのは、 日本の数学・算数教育にとって天佑でした。この大改正によって、我々の言語的なパラ メーター値と数字の表現や足し算・引き算の順序が完膚無きまでに一致するという、世 界にも例を見ないような文化を持つ民族が誕生したわけです。欧米文化が、ちょっとや そっとで、この世界史的偶然によって産まれた、世界に比類のない日本の文化に追いつ けるとは、私にはとうてい想像ができません。 (2011年12月30日追記: 上の「アメリカの占領軍司令部の人たち...」の部分は私 の記憶に頼って書いたので、ちょっと心配になって調べなおしてみました。「当たらず と言えども遠からず」という感じで、占領期にアメリカから日本の教育を非軍国主義化 するための視察団が来て、漢字を廃止してローマ字書きにしろとか、いろいろな勧告を 出し、いくつかは採用され、また、いくつかは採用されませんでした。そんなご時勢の 中で、日本語の横書きについては、「左から書き」を主張するのは進歩的、「右から書 き」を主張するのは保守的という風潮が生まれ、その結果、「左から書き」に改められ たようです。詳しくは「言問いメール528号・日本語横書きの顛末」 http://www1.rsp.fukuoka-u.ac.jp/kototoi/2012_12.html#528go をご参照ください。
    この記事に関するご感想・ご批判・コメント・お問い合わせなどは下記アドレスまでお願いします。
    ロボットによるスパム・メール用アドレス自動収集に対する対策として、
    下記のアドレスには末尾に自明な間違いを追加してあります。

    kshibata@vin.sm.fukuoka-u.ac.jp.jp

    10月号小目次 へGO!









    児童の学習における算数の計算順序と
         チョムスキー普遍文法理論の主要部パラメータ値との間の関係 /
        上の位からの足し算・引き算をした方が良いかどうかは、
         主要部パラメータの値で決まるか


    For an English summary 英語版,  click here!
     言問いメール510号「小学校算数・くり下がりのある引き算を地域ぐるみの取り組 みで落ちこぼれゼロにした久留米の教師たちの驚くべき教育実践」の中で私は、 『下の桁から』ではなく、『上の桁から計算して行く』という、一見すると極めて単純 な計算法が、なぜ、このように信じられないほどの威力を発揮して、子どもたちが「算 数 大好き!」になるような状態を作り出すのでしょうか。私は、言語学者 Noam Chomsky の「普遍文法理論」における「主要部パラメータ」の原理が働いている、と考 えています。 と書きました。本日は、その事の言語学的な『証拠』を見付け出したので、それを以下 に公開します。誰かの引用ではなく、私が今朝(2011年10月10日)発見した ばかりのホットニュースです。  世界の、私が知る限りの様々な言語では、1〜9迄の数詞は基本数詞であり、11〜 19迄の数詞は基本数詞を含む複合語になっています。それで、世界のいろいろな言語 について、これらの複合数詞がどのような構成を取っているのか調べてみました。 10以上の数の名称リスト        11  12  13   14   15  16  ------------------------------------------------------------------ 英語: eleven twelve thirteen fourteen fifteen sixteen ドイツ語: elf zwelf dreizehn fierzehn funfzehn sechzehn フランス語: onze douze tre'ze quatorze quinze seize ポーランド語:jedenas'cie dwanas'cie trzynas'cie czternas'cie pie,tns'cie szesnas'cie フィンランド語: yksitoista kaksitoista kolmetoista neljatoista viisitoista kuusitoista 上の何れの言語(主要部前置型)においても11以上の数字の名前は、 1 + 10, 2 + 10, 3 + 10, 4 + 10, 5 + 10, 6 + 10, というように、1の位から数えています。  これは、明らかに日本語、ハングル(いずれも主要部後置型)の言語の数え方と逆に なっています。  また、特筆すべきだと思われるのは、フィンランド語と非常に近い関係にある、同じ ウラル語族のハンガリー語は、語彙的には非常に多くの単語がフィンランド語と似てい るにもかかわらず、奇妙なことに文法的にはフィンランド語が主要部前置型、ハンガリー 語が主要部後置型であるために、19迄の数の名前がハンガリー語では日本語や朝鮮語 と同じように(上の位)+(1の位)となっていることです。        11  12  13   14   15  16  ------------------------------------------------------------------ ハンガリー語:tizenegy tizenketto tizenha'rom tizenne'gy tizenot tizenhat 御覧のように、10 (ti'z) を格変化させて tizen にして、後ろから   egy, ketto, ha'rom, ne'gy, ... (= 1,2,3,4,...) を後置しています。  つまり、11から19までの数詞を上の桁から数えるか、下の桁から数えてゆくのか は、ハンガリー語とフィンランド語のような、語族としても、また語彙的にも極めて近 い言語間でもハッキリと異なり、チョムスキーの普遍文法理論の主要部パラメーターが 前置であるか後置であるかによって決定されることが分かりました。  また、このことから、1の位が普遍文法の主要部に当たり、10の位は主要部を修飾 する部位として、無意識のうちに意識されている(ちょっと形容矛盾のような表現です が、他に良い日本語表現を思いつきません)ことがわかります。さらに、そのことは、 たとえば、フィンランド語では yksi, kaksi, kolme, nelja, ... (= 1,2,3,4,...) の 部分が主格の名詞のママであり、それを後ろから修飾している toista は動詞 toistaa の活用形で、動詞としての意味は「繰り返す、反復する」であり、それぞれ 1, 2, 3, 4, ... から「一回りして来た」 という意味で1の位の数詞を修飾しています。もっと も、現在では、英語の「〜teen」ドイツ語の「〜zehn」フランス語の「〜ze」と同様に 接尾辞化しています。フィンランド語では1の位に焦点が当たっているわけで、関心が 集中している焦点が主要部です。  同じように、主要部後置型のハンガリー語では、後置されている1の位 egy, ketto, ha'rom, ne'gy, ... (= 1,2,3,4,...) を前から ti'z (10 を表す数詞)が tizen と格変化して1の位を修飾しています。1の 位は主格名詞ですから、修飾される形であって、他の単語を修飾する形には格変化して いません。  このように、前置型、後置型の両方とも1の位の数詞が名詞主格形であり、10の位 が1の位を修飾していますから、10の位は修飾部であって主要部ではありません。そ れ故に、10〜19迄の数詞は、前置型では1の位を表す数詞が前に来て複合数詞が形 成され、後置型では1の位を表す数詞が後に来て複合数詞が形成されるわけです。  この話を福岡大学応用数学科の卒業研究ゼミ(学部4年生のゼミ)で私がしたら、 「携帯依存症」を自称するM君が「あっ、それで分かりました。日本の携帯の数字キー の配置は        987        654        321        <0> と、だんだん小さい数字になって行くのに、ヨーロッパの携帯の数字キーの配置は        123        456        789        <0> となっていて、まったく順序が逆なんですよ。」と教えてくれました。  なーるほど。日本は大きい数字をだんだん細かくしてゆく「ズーム・イン」型、ある いは、探偵小説で言うと、次第に容疑者を絞り込んでゆく「シャーロック・ホームズ」 型であり、ヨーロッパ(ハンガリーを除く)は小さい数字からだんだん多きくなって行 く「ズーム・アウト」型、すなわち、探偵小説で言うと、犯人は最初から分かっている のだけれど、その人物が犯人であるという証拠を探してゆく「刑事コロンボ」型なんで すね。  M君の説明では、日本の携帯の数字キーの配置がヨーロッパの配置とは逆に、「大  ー> 小」となっていることで、ポケットの中に入れたままでも、日本人には非常にス ピーディなブラインド・タッチが可能になっているのではないか、と言うのです。  こうなると、数の数え方ばかりでなく、指の運動神経の働かせ方まで、チョムスキー の主要部パラメーター値が強く影響を与えている可能性がありますね。
    この記事に関するご感想・ご批判・コメント・お問い合わせなどは下記アドレスまでお願いします。
    ロボットによるスパム・メール用アドレス自動収集に対する対策として、
    下記のアドレスには末尾に自明な間違いを追加してあります。

    kshibata@vin.sm.fukuoka-u.ac.jp.jp

    10月号小目次 へGO!







    抽象的概念から具象的把握へ
           / 子どもの認知レベルの発達の順序


    For an English summary 英語版,  click here!
     先日、高校生時代からの親友の目良誠二郎君(日本近・現代史が専門。日本と朝鮮の 歴史的関係を分析した論文多数あり)が東京で「柴田君を囲む会」という高校の同窓会 を開いてくれて、数名の昔懐かしい顔ぶれに半世紀ぶりで再開しました(その中に、2 名の女性がいたことは特筆すべきことだと思います)。話が盛り上がって、真夜中近く までワイワイと議論しました。目良君とも数十年ぶりの再開でしたが、「柴田はPISA, PISA と批判しているけど、PISA なんか持ち上げているのはほんの一部のジャーナリズ ムだけで、教育の現場では全くと言っていいほど問題にされていないんだよ。日本の教 育の現在の問題点は、もっと別の所にあるんだ。」と言われてしまいました。目良君は 最近定年退職するまでずっと高校教師を努めていましたから、それが実感なのでしょう。  PISA型教育、というか「フィンランド教育」の普及に東奔西走している北川達夫氏も ブログに「PISAは嫌われている。しかも、かなり嫌われている」と書いているくらいで すから、たしかに現場の評判は悪いようです。高校の数学教科書の執筆者の一人である M君と「数学教育の会」で数十年ぶりに再会した時にも、「やあやあ、久しぶり。柴田 君の今日の講演はPISAについて、らしいね。最近、イタリアに行ったの?」と質問 されました。高校の教科書の執筆者である数学者にしてこの程度ですから、一般のひと には全く知られていないことは確かです。  「柴田君を囲む会」の数日後に、ある有名企業のトップを最近定年で退いて、現在は 相談役だか監査役だかをやっている某君が、メールで、「特に柴田くんについては、容 貌といい、話し方等、半世紀前とほとんど変わっていないのには驚きました。世の中が いろいろな面で不確実になりつつあるときにまったく変化しないものに接すると何か安 心感を覚えるのは私だけではないと思います。」という感想を参加者メーリングリスト に投稿してくれました。  アハハ、激動の人生50年が経過しても、私は経営者が安心感を覚えるほどブレてい ないわけですか。(わしゃ、和製ドラッガーか??)要するに、私は6歳で小学校に入 学して以来、「学校」という閉鎖社会から一歩も外に出たことが無く、「泥水を飲んだ 経験」が無いから、高校生の頃の青臭い正義感を振りかざして、一人で勝手にドン・キ ホーテを演じているわけですね。  その目良君が Facebook に「アリジゴクがウスバカゲロウになることを最近まで知ら なかった」と書いていたので、私は驚いて、昆虫学会が「アリジゴクはおしっこをしな い」としていた定説を小学生が夏休みの自由研究で調べて覆した、という朝日新聞記事 を論評した私のブログ http://www1.rsp.fukuoka-u.ac.jp/kototoi/2010_11.html#444go と、そのことについて、私の授業で紹介したら、多くの学生たちがアリジゴク自体もま た、アリジゴクがウスバカゲロウになることも知らないのには驚いた、という授業実践 報告 http://www1.rsp.fukuoka-u.ac.jp/kototoi/2010_11.html#445go を Facebook に投稿しました。  そうしたら、目良君がレスで、 「かつての武谷三男の『三段階理論』で言えば、現象論的段階・実体論的段階・本質論 的段階の、現象論的段階を無視・軽視して一挙に本質論的段 階に向かえるかごとくの、柴田PISA批判、ということでしょうか。」 と書いたのですが、まったく違います。科学的思考の訓練を受けた専門家集団における 科学的認識の進化の有り様と、生まれ出て全く白紙の状態から幼児が世界認識を獲得し てゆく過程とは、全く違います。むしろ、逆方向とも考えられる、ということを以下に 説明してゆきます。  PISA 出題者が依拠するミラーとオズボーン(1998)の科学教育論は、私の「学力の国 際比較に異議あり 第3巻 PISA基本文献の批判的紹介・PISAに対する国際的 批判」の 23 ページに引用してありますが、 http://www1.rsp.fukuoka-u.ac.jp/kototoi/igi-ari-3.pdf <<引用開始>>  たとえば、ミラーとオズボーン(1998)は現代科学教育の目標は次のようなものでな ければならないと規定している:「科学的・技術的情報を読みかつ理解する能力とその 重要度を査定できる才能。」  彼らは続けて: 「この観点からすると、どのように’科学をするか’は本質的ではない。どのように科 学的知識を創造するのか、あるいは、最終試験の為に一時的に覚えられるかどうか、は 問題ではない。[PISA自身による省略]すなわち、科学の授業では、生徒たちは証拠を 評価するための能力があることを証明する様に要請されるべきであり、理論と観察を区 別し、提起されている説明に与えられている信頼性の度合いを評価するための能力があ ることを証明する様に要請されるべきである」(ミラーとオズボーン、1998)。 (中略)  また、ロークシュ、2000;グレーバー&ボルト、1997も参照)が、科学的教 養のレベルという概念を提起している。たとえば、バイビー(1977)は4つのレベ ルを提案した。それらの内の低い方2つは、名称と用語の知識から成り立っている「名 称の科学的教養」と、限定的な文脈で科学的語彙を使う事が出来る人達に当てはまる 「機能的な科学的教養」である。これらはOECD/PISAの枠組みの内部で目標となるには 不十分なレベルと見なされるべきである。 (中略)  たとえば、科学的教養が少ししか身に付いていない生徒は、簡単な科学の事実の知識 (すなわち、名称、事実、術語、簡単な原則)を思い出したり、あるいは結論を下した り評価したりするために常識的な科学の知識を使う事が出来るかもしれない。それとは 対照的に、高い科学的教養を身につけた生徒は、簡単な概念上のモデルを創造するか使 用して予測を立てたり説明を与えたり、それらを正確に作って伝えたりする事が出来る とか、彼らの実験計画を考慮した科学的調査を分析する事が出来るとか、そしてまた、 それらに対する別の観点や異なった見通しを確かな根拠に基づいて評価するためにデー タを活用したり、その意味するところを評価して正確に伝えたりする事が出来るという ことを示してみせるだろう。 [柴田の注]「まえがき」を含めて、PISAは科学の目標を「情報判断と説得の道具とし て利用する能力を身に付けること」に矮小化しています。(自然)科学および科学教育 の本来の目標は、「吾々を取り巻く(物質)世界の根源を理解し、その美しさ、精緻さ、 複雑さ、奥深さに感動できるようになる」ことです。無藤隆編著「理科大好き! の子 どもを育てる / 心理学・脳科学者からの提言」(北大路書房)でも、まず第1章の 「理科大好きの子どもを育てる12の原則」の先頭に、「1.身体的動きの原型から発 する」「2.自然への気づきは恣意的なものではない」「3.驚異の念を保持する」. ..となっていて第2章は「自然に対する感性と驚きから理科へ」となっています。そ の第2章で、「空はただの空。美しいとかそういうのはない」と言い切った「理科好き」 の中学生男子生徒のことを取り上げて、「このような発言へと生徒を導いたのは教室内 外で優勢な科学観や推奨されている『科学的態度』ではないだろうか。ひょっとすると、 現在の理科の授業自体に、自然に対する感性や情緒を否定的に扱う傾向があるのかもし れない。」と危惧しています。 <<引用、終わり>>  上に引用した部分の[注]として、私はPISA科学観の「役立ってナンボ」に矮小 化された卑属さを批判していますが、今回は認識論の観点から、子どもの認知の段階的 発達についての根本的な無理解について説明してゆきます。そして、そういう誤った理 論を実践した結果、多くの才能があるかも知れない若者たちが廃人同様にされ、酒浸り や麻薬漬け、そして自殺などへ向かわざるを得なかったフィンランドの現実を紹介して ゆきます。  上に引用したバイビー、ロークシュ、グレーバー&ボルトら欧米の教育学者たちは、 科学的教養に4つ(人によっては3つ)のレベルがある、と主張しています。上の引用 にもあるように、「科学的教養が少ししか身に付いていない生徒は、簡単な科学の事実 の知識(すなわち、名称、事実、術語、簡単な原則)を思い出したり、あるいは結論を 下したり評価したりするために常識的な科学の知識を使う事が出来るかもしれない。」 として、具体的な虫や花や石の名前、その特徴などを知ることを、えらく「低いレベル」 と見なしています。「そんな些細なことはやめて、もっと抽象レベル、メタレベルの高 いことを教育しろ」と言うわけです。正しいでしょうか?  この考え方は決して欧米人だけのものではなく、たとえば、渡辺弥生「子どもの『10 歳の壁』とは何か? 乗りこえるための発達心理学」(光文社新書)の各節のタイトル を見るだけでも、「具体的操作期から形式的操作期へ」「考える力の変化−−『具体』 から『抽象』へ」「記号での比較や仮説、論理的思考実験が可能になるのは11歳以 降」「メタ認知の発達」という、バイビーらと同様の思考の枠組みで考えています。 もちろん、渡辺さんの方がバイビー等よりも「具体的に」考察している分だけ(私から 見れば)レベルが高いわけで、(バイビー等から見れば)メタレベルが低いわけです。  上に紹介した、目良君の「現象論的段階を無視・軽視して一挙に本質論的段階に向か えるかごとくの、柴田PISA批判」という表現の中にも、「『現象論的段階』は低いレベ ルで『本質論的段階』は高いレベル」という感覚が見て取れますが、これが根本的に問 題なのです。  皆さんが「具体的」「抽象的」と言う時に、それは「認知の対象が抽象的なものなの か具体的なものなのか」ということと、「対象に対する認知の仕方やそれを表現する仕 方が具体的なのか抽象的なのか」という2つの全く異なる事柄を混同したり、それらが 互いに異なるものだという感覚が無いのです。  子どもが最初に認知の対象とするのは具体的なものであることは確かですが、それの 認知の仕方は非常に曖昧で、具体性に乏しい抽象概念を脳内に形成します。そして、そ の曖昧に形成された概念に「ことば」という最も抽象的な知的道具を使ってラベル付け をします。  以前、アメリカのテレビ局が制作した「言葉の不思議」という言語学を解説する番組 で、数名の幼児たちに「ラッシー(とか何とか言う、子どもたちがよく知っている犬の 名前)は『動物(animal)』ですか?」と教師が質問すると、子どもたちは嬉しそうに 「Yiiies!」と声を揃えて答えます。「じゃあ、(彼らが良く知っている何とか言うオウ ムの名前)は『動物(animal)』ですか?」と質問すると、幼児たちはまた声を揃えて 「Yiiies!」と答えます。「それじゃあ、」と教師が窓の外にある自動車を指さして、 「あれも動物ですか?」と質問すると、子どもたちはちょっと考えてから、やはり 「Yiiies!」と答えます。教師が「どうして? Why is it an animal?」と尋ねると、 「だって、動くもん! (Because it moves!)」という答えが返ってきました。つまり、 これらの幼児たちの頭の中に形成されている『動物(animal)』という抽象概念は、大人 の頭の中に出来ている『動物(animal)』という抽象概念に比べると、まだちょっと、あ やふやなところが残っているわけです。  子どもたちは知的な発達の、次のステップとして、各単語に象徴的なイメージのラベ ルを貼り付けます。「家(おうち)」に対しては長方形の上に三角形を置いた図(三角 形は「お屋根」を表す)を対応させ、「ひと」には、○で頭を表し、そこから下に引い た線で胴体を表し、胴体の線から4本の線を引きます(四肢)。これを美術教育の分野 では「棒人間」と呼ぶそうです。   △      ○         □     \ | /        |        / \  子どもたちが、次第に現実の具体物を細かく観察できるようになるに従って、○の中 に目や口が描かれるようになり、喜怒哀楽の表情も描けるようになり、胴体や手足も太 くなって行きます。おうちの絵も、入り口(ドア)が描かれるようになり、窓が描かれ て、中に人がいる様子が描かれたりするようになります。抽象的(象徴的)だった絵が、 次第に具体性、複雑性を獲得して、写実的に描けるようになってゆくのです。 (三沢直子氏の美術教育に関する諸著作参照) 形も曖昧な抽象的な概念という入れ物に、具体的な中身が次第に詰められてゆき、入れ 物の形も確固としたものに出来上がってゆくのです。  ところが、PISAが依拠している科学教育の研究者たちは、このような「具体性の獲得」 の重要性を軽視、ないし敵視することによって、子どもたちの知的発達レベルを幼児段 階に固定化させてしまうのです。PISA型教育を受けて育った子どもたちは、内容の無い、 あるいは内容がきわめてあやふやな言語のみをもてあそぶ「口先人間」へと成長してゆ くのです。  子どもたちが豊かな具体性を獲得してゆけば、たった一輪の花に対しても、その美し さを愛でると共に、その花の生物学的な仕組みの中に、厳しい自然界で生き延びてゆく ための様々な驚くべき機能と組織が備わっていることに驚き、生命進化の数十億年の不 思議さに感動させられます。また、たった1個の石ころであっても、虫眼鏡でよく見て みれば、それが水成岩であれ、火成岩であれ、様々な鉱物の微細なカケラを含んでいて、 その岩石が作られた数百万年、あるいは数億年の地球の歴史が刻み込まれていることに 感動するでしょう。  PISA「科学的リテラシー」の問題作成者は「造山運動」と「海面の後退」の違い も分からず、「温室効果」と「地球温暖化」の違いもまったく理解していません。自然 科学にとって最も重要な、具体的なこと、基礎的なことが全く理解できていないので、 内容の無い「科学的」キーワードを並べ上げて、「科学っぽいキーワード」が雑然と散 りばめられた文章を作る程度のことしかできないのです。これは科学教育の衆愚政治 (ポピュリズム)です。  フィンランドの数学教育研究者たちが口を揃えて、「PISAに騙された」「フィンラン ドの子どもたちは PISA の『おしゃべり算数』で世界的な高得点を取ること以外には何 も出来ない人間に成長している」「PISA調査での『世界一』の地位は『ピロス王的 勝利』だったのではないか」と言っているのは、こういうことなのです。なお、「ピロ ス王的勝利」とは、昔ギリシャ北西地方 Epirus の王 Pyrrus (300 - 272 B.C.) がロー マ軍を破ったときのような、犠牲の多すぎた勝利を指します。  今年(2011年)3月に、私は吹雪の中を、列車を乗り継いでヘルシンキから北方 の小都市カヤーニに向かいました。そごで、昨年東京で知り合って以来非常に親しくなっ た教育学者のハッカライネン教授と再会しました。私がハッカライネン氏に確認したかっ たフィンランド教育の現状に対する恐ろしい仮説を、私が切り出さない内に彼の方から 語り出しました。  「フィンランドでは、10%以上の若者が学校教育から落ちこぼれ、あらゆるセーフ ティ・ネットから落ちこぼれ、ひたすた20歳になるのを待っている。20歳になれば、 失業手当がもらえるから、親に依存しなくても生きて行けるだけのお金をもらえるから だ。そして、そういう若者の大部分が男子だから、男子の落ちこぼれ生徒の、同年代に 占める割合は、ひょっとしたら20%近いかも知れない。たとえ食べて行けるだけの失 業交付金を受け取ったとしても、人は単に食べられればいいわけではない。夢も希望も なく、将来に対していかなる人生設計も立てることができずに、彼らは酒やドラッグに 浸り、依存症になったり、自殺したりすることになる。この恐ろしい現実を誰1人とし て直視しようとしないのだ。」と彼は言います。「いいえ、そんなことはありませんよ。 少なくともあなたは直視しているし、あなたの話を聞く前から、私も直視してきた積も りです。二人が直視してきたと言うことは、世界には、二人の他にも、この深刻な事態 を直視している人がいる可能性があります。諦めずに頑張りましょう。」と励ましまし た。  フィンランドでは、2年前に新・大学法が国会で制定され、「儲かる大学(学部)」 は拡張し「儲からない大学(学部)」はリストラして造り直すことになり、彼の大学に もバリバリのやり手の新学長が登場しました。さっそくやり玉に挙がったのが、ハッカ ライネン教授が永年学部長を務めて来た教育学部です。教育学部は「教育学科・社会学 科・心理学科」の3学科制だったのが1学科に減らされ、名前も「教員養成科学部」と 変更になりました。「『科学』という文字を入れれば『科学的』になるというわけでも ないのに」とハッカライネン氏が笑ったので、私はマジメに「いや、PISAをやって いる人たちの発想は『ことば万能主義』だから、彼らは大真面目で本当にそう思ってい ると思いますよ。」と言いました。  彼がカヤーニの大学構内を案内してくれて、「この建物は夏休み中に取り壊される、 あの建物も...」というようにして、スクラップになる建物をあちこち指先で指し示 しました。なにしろ、基本的に学生・教職員・施設を3分の1に激減させる大改造です から、『死屍累々』(ご注意:これはあくまでも比喩的表現の四字熟語です。早とちり して私の所に抗議メールなどを送りつけないでください。繰り返します。これは、あく まで比喩的表現です)というところでしょう。もう今は10月ですから、おそらくカヤー ニ・キャンパスでは、至る所に取り壊された建物の残骸の瓦礫の山が積み残されている のではないでしょうか。フィンランドのカヤーニは、私の頭の中では日本の「FUKUSHIMA」 と2重映しになっています。  ハッカライネン氏は大学の副学長の職も、教育学部長の職も解任されて、カヤーニか ら転勤するように命令を受けています。カヤーニには、彼の薫陶を受けて大学院博士課 程を卒業した教師たちが小学校などでいろいろな授業改革を試みています。転勤命令は、 そういう彼の影響力を地域から排除してゆくための第1歩だろうと私は推測します。 「転勤命令に従うか、そうでなければ辞職するしかないんです」と彼は言っていました。  グローバル資本主義者は本当に軽薄で、その上、血も涙も無い、ということを痛感し ました。
    この記事に関するご感想・ご批判・コメント・お問い合わせなどは下記アドレスまでお願いします。
    ロボットによるスパム・メール用アドレス自動収集に対する対策として、
    下記のアドレスには末尾に自明な間違いを追加してあります。

    kshibata@vin.sm.fukuoka-u.ac.jp.jp

    10月号小目次 へGO!







    NHKはなぜ発言者の言ったことを次々と書き換えたテロップを
        流すのか? これは明白な情報改ざんの連発ではないか


    For an English summary 英語版,  click here!
     昨日(10月6日)の夕方7時のNHKテレビのニュースを見ていたら、トップニュー スが小沢一郎氏の4億円不正疑惑の第1回公判の模様を伝えていました。裁判の様子を 一通り簡単に説明してから、「それでは、識者はこの第1回公判の様子をどう見ている のでしょうか?」ということで、何人かの有名人のコメントを放映しました。江川昭子 さんが「...小沢さんとしては、『あの検察ですら起訴しなかったのに』という嘆き節な んでしょうね。」と明白に言ったにも拘わらず、画面のテロップでは『嘆き節』が『恨 み節』に書き換えられていました。「あれーっ、こんなにハッキリ聞き取れるのに、な んで書き換えたんだろう?」と疑問に思ったら、次に出て来た堀田さん(弁護士・元東 京地検特捜部副部長)が「...小沢被告は...」とコメントしたところを、テロップは 「...小沢元代表は...」と書き換えていました。「次に、政界の反応はどうだったでしょ うか」ということになって、自民党の次の次に出てきた『みんなの党』代表の渡辺さん が、「小沢さんが無実だと主張したいなら、国会で無実を証明すべきだ」というような 発言をした(メモしたわけではないので、細かいところに多少の記憶違いがあるかも知 れません)にもかかわらず、テロップでは「証明」の部分が「証言」に書き換えられて いました。  僅か5分間くらいの間に、何気なく聞いていた私ですら気が付いた書き換えが3カ所 もあったということは、普段からかなりの頻度で書き換えが行われている可能性があり ます。実際、ちょと気になったので、ニュースの直後の「クローズアップ現代」を意識 的に注意して見ていたら、そ中でもやはり明白な書き換えがありました(細かい違いだっ たので具体的になんという単語だったかは忘れました)。  これは日本語の音声表現を文字表現に「翻訳」する作業ですから、日本語の母語話者 である私には、書き換えが瞬時にわかったわけですが、もしもイラク人へのインタビュー で誤訳があったとしても、イラクの言葉を理解できない私には、そのテロップに書き換 え(意図的な誤訳)があることはまったく分かりません。また、耳の不自由な人にとっ てはテロップという視覚情報だけが頼りですから、掘田弁護士が本当は「小沢被告は...」 とコメントした事実は伝わらないわけです。  映画の字幕翻訳では、どんどんスクリーン上の場面が変化してゆくので、俳優がしゃ べっていることを全て字幕に書いても、画面変化のスピードに追いついて行けないので、 普通はセリフを短く切り張りして、見ている人が読んで付いて行ける程度に圧縮してい ます。しかし、今回のテレビニュースでは、日本語の発言をそのまま文字化しているだ けですから、セリフを圧縮しているわけではありません。圧縮どころか、「被告」を 「元代表」と書き換えたのは、漢字1字分増やしてすらいます。  こんなにあっけらかんと、どんどん情報を改ざんしても、ほんとうに良いのでしょう か?
    この記事に関するご感想・ご批判・コメント・お問い合わせなどは下記アドレスまでお願いします。
    ロボットによるスパム・メール用アドレス自動収集に対する対策として、
    下記のアドレスには末尾に自明な間違いを追加してあります。

    kshibata@vin.sm.fukuoka-u.ac.jp.jp

    10月号小目次 へGO!